文章を読んでいて、ああこれが作者の言いたいことなんだろうなと感じることがある。

しかし、冷静に考えてみると、自分が読みたかったこと、言って欲しかったことなのだと気づく。

センサの問題なのだと思う。

自分が何に関心を持っているのか、それが可視化される。

結局、どんなに思っていても、言葉で表現するのはなかなか難しい。そのもやもやとした状態をぴたりと言い当てる表現に出会うと嬉しいものだ。

 

同じ文章を読んでもそのセンサの向いている方向性、感度によって受け取る情報量や質、情報そのものが全く異なるだろう。そうやって受け取った情報から自分のセンサの状態を知ることができる。

 

文章を読んでいて、もっと早く読みたかったと感じることがある。

これもセンサの問題で、もっと早く読んでも何も感じなかっただろう。今のセンサの状態だから受け取れるものがあったのだ。そのためには、ここに至るまでの経験が不可欠だったと思う。

 

文章を書く場合、これの逆のことを意識すると良いのだろう。

自分が言いたいことを書く、のではなく、特定のセンサを持っている人に向かって感知したい情報を言葉で表現する。そうすれば、すんなりと伝わるんじゃないだろうか。

業務上のメッセージのやり取りで歯がゆい思いを経験している。知りたいのはそれじゃない的な。これはお互い様だろう。相手が何を知りたいのか、それを考える。

 

何となく、文章を読む、書くのベクトルが逆のように感じた。

文章を読むのは、他人の考えを知るようで、自分の考えへアクセスする。

文章を書くのは、自分の考えを伝えるようで、他人の考えへアクセスする。

 

蛇足だが、読書感想文の複雑性は、このベクトルの異なるものを合体させているからだろう。文章を読んで自分の考えにアクセスしたその結果を、他人の考えにアクセスするように書いていかなくちゃならない。

 

さて、難しいを簡単にするのが天才で、簡単なものを複雑にするのが馬鹿という慣用句を聞いたことがある。

上の文章はまさにそれで読書感想文というシンプルなものをよくまあわかりくく捉えたものだ。